東京メタ哲学カフェに参加しました
アップしたつもりがしてませんでした。今日も東京メタ哲学カフェがあるのだけど、用事があって欠席です。
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僕が立ち上げの頃から参加している東京メタ哲学カフェに進行役として参加しました。
参加者は、哲学カフェの開催側の人が僕も含めて4名くらい、そうでない人が4名くらいでした。
このくらいの人数が話しやすいかも。
ここは、13:30~17:00と、哲学カフェにしては長丁場です。
まず、主催者(僕ではないです)の進行で自己紹介。哲学カフェ関係者の情報交換みたいな意味もあるのでちょっと長めに30分弱。
そして、僕が設定したテーマ、「哲学カフェから帰っても哲学してますか?対話してますか?哲学対話してますか?」で話し合い。
練習台として、あまり意味のないパワポも使いました。
(一応ですが、これは哲学カフェの標準的な進め方ではないです。)
僕としては、「哲学してますか?」と「対話してますか?」が絡み合って進む感じを予想してたけど、
結構、「哲学してますか?」のほうに引き寄せられていた気がします。
今日の参加者は、哲学的な話をする場への飢餓感みたいなのが強かった気がします。僕も含めて。
対話志向な人が多いと、また別な展開なんだろうな。
あと、当初の想定としては、哲学カフェでやっていることについて前提の了解があるうえで、それ以外の場で、その哲学をしているか、という問いをイメージしていたけど、
そもそも、哲学カフェでやっている哲学とは何か、という方向に話は進んでいきました。
哲学が好きな僕としては、皆さんの哲学に対する熱い思いが聞けて嬉しかったです。
こういう、濃いメンバーで話せるのは、東京メタ哲学カフェならではかも。
時間がなく、僕の感想をきちんと話さなかったので、残しておきます。
「哲学カフェでやっていることは、哲学対話とも呼ばれるとおり、哲学でもあり、対話でもある、ってことなんだろう。
純粋な哲学ではなく、そこに対話という夾雑物が入り込んでおり、純粋な対話ではなく、そこに哲学という夾雑物が混じっている。
哲学と対話の混合物のような中間的な営みが、哲学カフェで行われている哲学対話なのかもしれない。
だから純粋な哲学より間口が広いし、純粋な対話より味わいがある。そこに哲学対話の魅力があるのかもしれない。
僕にとっては、哲学カフェはリハビリの場とも思う。
今日の話でもあったけど、哲学とは、哲学をせざるを得ない人にとっては、どこまでも深い穴を掘ったり、底なし沼で足場を探すようなもので、
終わりのない孤独な作業だ。そのような人にとっては、哲学カフェとは、一時的な足がかりであり、いったん地上に戻って一息をつくような場のように思える。
一方で、想像だけど、哲学を当面必要としていない人にとっては、哲学カフェとは、いっとき、深い穴や底なし沼を覗き込むようなものなのかもしれない。
いつか哲学が必要となった時に、こんなのがあったと思い出すために。または自分がしているのが哲学だと気づくために。」