ヨコハマタイワ18でした
昨日はヨコハマタイワ18でした。
日曜の午前なのに8名の方にお越しいただきました。
そのうち、全く哲学カフェが初めてという方も2名。聞かなかったけど、「哲学カフェ」でグーグル検索して、サイトを見つけて見て来てくれたのかな。
10:00スタートだったけど、皆さん結構時間厳守でありがたや。
自己紹介のついでに午後はどうやって過ごすかを聞いたけど、ちょっと個人情報っぽくなりすぎたかな。好きな食べ物とかのほうがいいな。
テーマは「多様性」
全員に、「多様性」にまつわる問いを出してもらいました。
すると、「ここの参加者が多様性を認めているということを前提に、多様性について話したい」という意見やら「多様性っていうのは空虚な言葉だから、自由について話したほうがいい」という意見やら「多様性って、ありすぎても困る」という意見やら、色々と出てきて、正直、どうしたものやら、と思ってしまいました。
多分、「多様性」というのが、「みんながなにかしら語れる言葉」で、それも「色んな角度から語れる言葉」なのが原因なのかもしれないなあ。
けど、振り返ってみると、進行役としては、途方に暮れつつも、なんとか立て直そうと格闘する感じが面白かったように思います。
ということで、今回は(今回も?)、僕の進行は、結構介入してガンガン整理する感じの進行でした。
哲学カフェが始めての方がいたので、自己紹介しない哲学カフェもあるよ、とか色々説明しながら進めたのですが、僕が介入しがちな進行役だということは伝えなかったなあ。もっと介入しない進行役もいますよ~
まず、「多様性」について、具体的な問いを設定しました。話を深めて決めようと途中までやってみたけど、どうもうまくいかないので、えいやっ!と多数決で決めてしまいました。
その結果「多様性への不安はどこからくるのか。」になりました。
話の中身は面白かったのに、僕の進行はちょっとチグハグだったかも。この問いの設定の手順はあんまりよくないのかな。もう一度試してみて見直そうかな。
印象に残った話を僕なりにまとめて箇条書きにしておくと、
・「○○ペイというようにたくさんの決済手段があるという意味での多様性」「ビーガンやアレルギーのような食べ物についての多様性」「人殺しをする人もいるという多様性」というように色々な種類の多様性があり、それぞれで「多様性」の意味合いが違う。
・整理すると3段階の多様性がある。
①存在「違う存在が現にあるという意味の多様性」(人殺しをする人が現にいるということを認めること)
②許容「違いを許容するという意味の多様性」(誰かが人殺しをすることを認めること)
③軍門「軍門に下り、人殺しをすることを認めるという意味の多様性」(自分も人殺しをするのがいいことという価値観を認めること)
・多様性の不安を感じる人と感じない人がいる。
・多様性の不安には、身の危険(理解できないような行動を取る人に対して感じる本能的不安感)、自分が劣ること(○○ペイのような決済手段をつかいこなせないこと)、少数派になること、といったものがある。
・多様性に不安を感じない人も、その不安から全く隔絶されている訳ではなく、不安を理解できつつも乗り越えていたり、不安を感じないが言葉では理解できていたりする。多様性の不安を乗り越える方法は、まあ、そういうものとあきらめ、気にしないということ。
・不安を感じるかどうかの違いは、多様性を受け入れるのに、どれだけ時間がかかるか、というような差なのではないか。
・多様性の問題には、個人の問題と、社会の問題とがある。(この日は、個人の問題に限定して話すことにしました。) などなど
という感じ。こう書いてもなんだかわからないかもしれないけど、自分(と他の参加者)のためのメモです。なかなか深まったのではないでしょうか。進行役として最初は途方に暮れたけど、結果オーライでしょう。何名かの方には面白かったと言ってもらえました。
いつもは3時間近くかけるところを、トイレ休憩だけで2時間弱で駆け抜けましたね。
その後は、たいていダラダラ飲みに行ったりするけど、この日はその場で解散!皆様お疲れ様でした。
久しぶりの午前開催だったけど、やってみるとサクッと終わってなかなかよかったかも。
午後は、ヨガに行ったり、ライブに行ったり、有意義に使えました。てんこ盛りすぎて疲れましたが・・・
最後に、自分なりの現段階での「多様性」についてのメモ。
「多様性の中身を理解したり、評価したりするその手前に、ただ存在するなあ、と受け止めることができるかどうかが、多様性を認められるかどうかのキモだろう。なぜなら、多様性とは、中身は自分と違うけれど、なぜか似ている存在として他者を認めることなのだから。」