ヨコハマタイワ31を開催しました
きのう、ヨコハマタイワ31を開催しました。
参加者は8名でした。僕の哲学カフェが初めてという方や、哲学カフェ自体が初めてという方もいて、バラエティに富んでいてよかったです。(いつも来ていただく方もありがたいですよ。)
テーマは、参加者の皆さんに出してもらったのですが、ものすご~く、たくさん意見をいただき、びっくりしました。全部で11個!(いつもは、4、5個くらいかな。)
じっくりテーマを絞り込んでいくプロセスも好きなのですが、どうも話す時間がなくなりそうなので、さくっと多数決。その結果、テーマは「人類は進歩すべきか。」に決まりました。今後のために、惜しくも漏れたテーマをいくつか。「情熱はどこからくるか。」「感性は豊かであるべきか。」「勝つとはなにか。(負けるが勝ちも勝ちだけど。)」どれも面白そう。ここまで30分。
テーマも決まり、ここからは、いよいよ進歩について話したのですが、今回は、進行役として、議論の方向をかなり意図的に絞っちゃったかも。まず「人口増に対応するためには進歩が必要」というような現実社会についての考察は、(皆さんの同意を得たうえで)外しちゃいました。また、「進歩により、どういういいことや悪いことがあるか。」といった個別具体的な話は、あまり踏み込まないようにしちゃったかも。
その結果、面白い話ができたと思う反面、ちょっとパーツが欠けた話になっちゃったかもな、という反省もありました。
僕は、具体的な話より、抽象的な話のほうが好きで、哲学カフェと名乗るからには、そっちのほうがいい、とさえ考えてもいます。だけど、具体的で活き活きとしたエピソードの中にこそ大事なことが含まれている、という感覚もあって、そのバランスが難しいな、とも感じています。まあ、僕の進行には抽象的な方向にいきがちなクセがあるよ、ということでご容赦ください。
あと、僕は、結構自分の意見も言うし、話の流れにもガンガン介入します。これも僕の進行の特徴だと思います。それでも、今回の参加者の皆さんは、僕の介入にも負けず、色々な発言があり、とっても面白かったです。
ということで、5分休憩をはさみ、あっという間に1時間50分がたち、最後に皆さんから一言ずついただき、ちょうど2時間で終了。いつもなら僕も一言言うのだけど、時間もなくなり、あわてて机をもとに戻して解散しました。
ということで、参加者の皆さんには、僕の一言は、ブログに書きます、と予告したので最後に書いておきます。ただ、時間が経ち、色々考えてしまったので、あの場での話から少し離れ、僕なりに「進歩」というものを考察した文章になってしまっています。
進歩によって得られる(かもしれない)ものには「幸せ?」と「豊かさ?」がある、と二分できる、という話が出た。
進歩により、教育などを通じて考える力や未来を切り開く力のようなものが得られれば、それはダイレクトに幸せにつながる。だけど、スマホのバージョンアップのような進歩では、幸せは得られず、物質的な豊かさしか得られない。そういうふうに二分できるという話である。
このように二分するならば、進歩によって、豊かさは得られても、幸せが得られるとは限らない。更に言うならば、進歩と豊かさは深く関係しているけれど、進歩と幸せはあまり関係がない。これが、その場の参加者のおおまかな共通認識だったように思う。
ここに当日の話で出なかったことを付け加えるならば、進歩で得られる豊かさは、幸せの前提としての土台(時間的余裕など)を整備してくれる、とまでは言えるのかもしれない。だから、豊かさは幸せに間接的には関係している。進歩により幸せのために必要な余裕が生まれる、という話が出たけれど、この話はそういうことだったのではないか。
だけど、進歩による豊かさは、余裕を生みもすれば、奪いもする。洗濯機のような発明は余裕を生むけれど、スマホゲームのような発明は余裕を奪う。だから、進歩には良い進歩もあれば悪い進歩もある。また、進歩により、教育やコミュニティといった幸せに直接つながる何かを手に入れることもできれば、進歩がそれらを奪う場合もある。そういった意味でも、進歩は、良くも悪くもなるから、進歩とは、いわば価値中立的だとも言える。だから、進歩と幸せは関係ないとも言える。
だけど、ある参加者が言っていたけれど、進歩により、進歩自体をよりよいものにしていくこともできるはずだ。その場での僕は、この言葉の重要さに気づけなかったけれど、よく考えるならば、進歩が進歩である限り、悪い進歩を良い進歩に進歩させていくことも可能なはずである。だから、進歩と幸せは直結しているとも言える。
そこまで考えるならば、進歩とはどこまでも良いものであるはずである。一言で言うならば、進歩とは、良い変化のことを指すことになるから、当然、「人類は進歩すべき」なのである。というか、本当の進歩はそういうものでなければならない。だから、ここで問うべき問題は、人類に本当の進歩が実際に可能かどうかなのである。
そのことを考えるためには、僕が進行役として切り捨ててしまった、個別具体的な話を避けることはできない。だから、もう一巡、この話をもっと時間をかけてやってみたいなあ、とも思う。