ヨコハマタイワ34を開催しました
本日、「ヨコハマタイワ34」を開催しました。最近は恒例となっているレポートも楽しみにしている方もいるようなので、今回も書きます。読んでくれる方がいると思うと励みになりますね。
今回は、足が痛かったり、花粉症だったりと、体調の問題から少し気分が沈んでいましたが、やってよかったです。皆さん、チヤホヤしてくれたし(笑)。
参加者は8名で、定員いっぱいでした。(実は、締め切り間際に申し込みが相次ぎ、定員オーバーの9名になっていたのですが、当日、1名欠席でした。欠席した方からは、ご連絡があり、体調不良ではなかったようで、よかったです。)
そのうち、初参加は1名で、それ以外は何度か参加している方が多かったかな。知っている人が多いと参加者のキャラが掴みやすくて、気楽に進行できたように思います。どう展開するかわからないドキドキ感もいいけど、こういうのもいいですね。世の中にはクローズドな哲学対話の場もあるようですが、こんな感じなのかな。
今回は、当日、その場でテーマを決める形式で、最初の30分ほどで、テーマは「嘘をつくとはどういうことか?」に決まりました。(個人的には、候補にあがった中では「無料っていいこと?」をそのうちやってみたいな、と思いました。お金に関するテーマは最近扱っていない気がするので。)
僕は、テーマ決めにおいては、テーマの文章での表し方が重要だと考えていて、その点、「嘘をつくとはどういうことか?」という文章だと話しにくいので、文章を考えてみることにしました。「嘘」は面白そうだけど、「どういうことか?」だと、何が問題か不明瞭なんですよね。ということで、皆さんの話を踏まえ、半ば強引に「嘘とは何か?」と「なぜ嘘をつくのか?」という二つの文章でテーマを設定し直すことにしました。
さらに、「嘘」とは、オレオレ詐欺のような犯罪を含むのか、「嘘も方便」のような嘘を話の中心に据えるのか、といったような、「嘘」の範囲の絞り込みをしました。当然、話していく中で多少ズレが生じてもいいのですが、ある程度、参加者全員が同じような情景を想像し、そこに焦点を絞っていったほうが、対話が面白くなると思ってるんですよね。ここでは、完全に悪い嘘よりも、「嘘も方便」のような、どこかに善さが含まれている嘘に焦点を当てることにしました。
このように、今回の対話の前半では、絞り込みを意識した進行をしたのですが、そこで感じたのが、絞り込みをすることへの参加者の皆さんの(言外の)抵抗感です。絞り込むということは、つまり切り捨てることでもあります。だから、参加者の抵抗感とは、切り捨てられてしまうほうの話をしたい人への思いやりなのかもしれません。そのせいか、今回の対話は、あまり絞り込みを加えず、「嘘」の周辺を巡り、「嘘」の周辺の解像度を上げ、そこから「嘘」をぼんやりとでも浮かび上がらせるようなものになったような気がします。
実は、僕のファシリテーターとしての持ち味は、まっすぐ答えに切り込んでいくような、切れ味がいい進行にあると思っています。だけど、今日は、こういう流れもいいな、と思いました。僕だけだったら作る事ができない場を、参加者の皆さんと一緒に作ることができたという意味で。
ということで、唯一の反省点は、ホワイトボードへの板書がイマイチだったこと。ホワイトボードの板書は、僕の脳みその中身のようなものだから、僕自身が対話の流れを掴めず、整理できていないと、それが板書に表れてしまうんですよね。
だから、改めて、その場で出た話を整理すると次のような感じでしょうか。
- 嘘には、「自分自身のための悪い嘘」と「誰かのための善い嘘(方便)」がある。ただし、その善悪を誰が判断するかは微妙な問題。嘘を言っている本人こそが嘘の捉え方を判定できると言いたくなるけれど、実はそうでもない。
- すべての嘘は結局自分自身のため、とも言えるけれど、そう簡単に整理できる問題ではない。オレオレ詐欺のような私利私欲の嘘と身近な人を思いやる嘘には違いがあるようにも思える。嘘によって、自分自身と自分をとりまく社会とのバランスをとる、という側面もある。
- 自分の心の中に浮かんだすべての想いを、そのとおりに言葉にはしないこともある。例えば、社交辞令など。けど、それは嘘ではない。嘘とは、強い意志をもって、自分の心に浮かんだこととは違うことを言うことである。だから、嘘には決意が必要とも言える。いいかげんな気持ちではなく、決意を持って言った嘘こそが善い嘘である、という側面もある。
- 嘘は、場面によって悪さが違う。商売の駆け引きのような場面の嘘はそれほど悪くないけれど、国家ぐるみの嘘は影響が大きくて特に悪い。
- 方便としての嘘とは、言葉の使用のショートカットである。言葉の使用には、現にある言葉を使うことしかできない、という制限がある。だから、目的に沿った、ちょうどいい言葉がない場合、言葉にしなかったり、別の言葉を使って、その目的(に近いこと)を果たそうとする。それが方便としての嘘である。(これは、その場では出なかった、僕が考えた話)
とまとめ直して、振り返ってみると、結局のところ、今日の対話は、「嘘とは何か?」についてのものだったのかもしれません。「嘘と嘘ではないものの違いは何か?嘘の中にはどのような種類のものがあるのか?」についての対話だったということです。前半で、ある参加者が言っていたけれど、結局は「嘘とは何か?」を話さないと「なぜ嘘をつくのか?」を話すことはできない、ということなのかもしれません。う~ん、進行は難しい。
最後に、僕自身の「嘘」についての考えですが、僕は、どんなに善意っぽく見えたとしても、「嘘」は全部悪いと思っていました。なぜなら、どんな場合でも、「嘘」とは、相手との真摯な対話を避けることだから。だから、せいぜい必要悪としての「嘘」はあっても、善い「嘘」はない。
けれど、そういう極端な結論に簡単に至らないところも、哲学対話の面白さのような気がします。行きつ戻りつの非効率さこそが楽しいんですよね。今回は、そんな楽しさを再確認しました。